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「コンクール出場団体あれやこれや2009」(その6)


はぁ。。。(深いためいき)


web交換日記相手さんの事を心配している場合じゃありませんね。
2度も連続で消すと精神的ダメージがデカイ。(_ _)....


しかし、時間が無いので顔晴ります。。。


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15 宮崎学園短期大学合唱団(女声30)
(F3/三善晃「木とともに 人とともに」より「ピアノのための無窮連祷による~生きる」)


この曲の題名にある「無窮連祷」という言葉について。
「むきゅう」は「永遠・無限」という意味、
「れんとう」とは「カトリック教会の礼拝で、司式者と会衆とが交互にかわす連続の祈り」
という事です。
簡単に書けば「永遠に続く祈り」という事でしょうが、単なる祈りではなく
祈る人とその祈りを受ける人との間でのやり取り、という意味合いがあります。

つまり「互いに交わし続けられる永遠の祈り」


さて、少し話がずれますが
小澤征爾氏・大江健三郎氏の対談を収めた「同じ年に生まれて」(中公文庫)
の111ページにこんな部分があります。
小澤氏の言葉です。


「(前略)・・・日本人だけじゃなくて人間が持っている本性、
 要するに、芸術が人間の生きていることに交わるとき、どこかにある寂しさと悲しさ。
 なぜかというと、人間には必ず死ぬという宿命がある。
 生まれた瞬間にだれかと別れなきゃならないとか、会えば必ず別れというものがあるとか、
 そういう寂しさもあるし悲しさもある。人間の情というもののなかに必ず悲しみがあるとすると、
 音楽は、理屈なしに、それを出すのに一番手っ取り早いものを持ってたんじゃないか。
 音楽の響きのなかにそれがあるんじゃないか。(後略)」


この「生きる」という詩、そしてこの音楽、
どうしてここまで「哀しみ」を感じさせるのか。
明るさと美しさと優しさと哀しさが、絶妙のバランスで交錯しているこの曲。
悲しみに対して、誰かが手を伸ばして助けてくれる訳じゃない、
言葉は、音は、ただあるがままに、そっと寄り添っているだけだ。
きっとそれが「愛」でもあり、同時に「哀しみ」でもあるのだろう、と思う。


宮崎学園高校も全日本合唱コンクールでは「生きる」を選曲しています。
まさに有川先生からの渾身のメッセージだと思われます。
歌い手が感じる「生きる」という事について、
そして彼女たちが歌う音楽に対して
わたしも心を寄り添わせたいと思います。


16 香川大学合唱団(混声53)
(G2/松下耕「子猫物語」より「子ども」「守る」)


香川大学合唱団は
わたしの記憶が正しければ21年ぶりの全国コンクール出場です。
現役生が生まれたかどうか?ぐらいの頃の話です。

以前は「低迷してる」に近い言葉を何度も審査講評で言われるばかりだった大学部門も
近年は充実ぶりが著しいと思います。
それは、コンクールに参加する団体が増え切磋琢磨している、
という事に尽きるでしょう。
まだ時に意味合いをあまり感じないサウンドが鳴る場合も見受けられますが、
まるで生き物のように音楽が息づいている演奏をする団体もあったりして
ドキリとさせられる事も何度かあります。

そんな中で
四国支部の大学部門は参加団体が増えていない唯一の支部かもしれない。
よって競争も激しくはならず、全国レベルからは置いていかれている傾向を感じます。
ぜひとも香川大学には顔晴って欲しい!と願っているのです。

昨年香川大学では「百日咳」が流行して大学閉鎖となり、
サークル活動も全面禁止となってしまい、
合唱団もコンクール出場を断念した、という経緯があります。
その悔しさを今年の活動にぶつけたのかどうかは判りませんが、
破たんの少ない安定した演奏をしていました。
もちろん、全国レベルでは攻めまくった演奏をしないと対抗できないので、
支部コンクール時点から進化している事を楽しみにしています。

四国コンクール閉会後
肩を落として帰りのバスに乗り込むわたしの後輩たちの横で
歓喜の涙を流し合っている香川大学の女の子たちがいました。
そういう光景は、いつ見ても良いものだなぁ…と思います。
努力が報われた瞬間の気持ちを、いつまでも大切にして欲しいと願うばかりです。
そしてわたしの後輩たちにも、ぜひそういう気持ちを味わってほしい。
出来れば、支部レベルではなく、ね。


17 東北福祉大学混声合唱団(混声50)
(G4/R.Schumann“Messe in C-moll”より“Credo”)


東北福祉大も福島大学と並んで、全国コンクールへ出場する常連団体となりつつあります。
オシの強い演奏をする訳ではありませんが、
キッチリと足元を固めて演奏する印象が強い団体です。
だから破綻する瞬間は皆無、あとはどのように音楽を料理するか?
という部分の問題なのだと思われます。
ミサ曲だからエキセントリックな演奏をするのもおかしいし(そんな団体ないよ・笑)
音楽をどのように聴かせるか?というレベルが問われます。
上手に聴かせただけでは「何かが足りない」という感覚がするのですね。
この辺りが「上手な団体ばかりが集っている場」の難しさでもあります。

今年の自由曲はシューマンのミサという事で、
選曲が九大混声と重なってしまいましたが、
九大はGloria、東北福祉大はCredo、という事で上手にリレーするようです(笑)。
なかなか珍しいですね。
さすがにKyrieを演奏する団体はなかったか(笑)。

「歌」というものは楽譜の再現というレベルを超えて、
人が生きている生き様のようなものが透けて見えてくる、と、いつもわたしは感じます。
ミサ典礼文の言葉の中に何を込めるか?音符の中に何を込めるか?
という事そのものが、生き様を反映している。
そしてそういうものは聴き手にハッキリと伝わっていくものです。
コンクール大学部門の最後を飾る団体として、
ぜひとも熱さが、エネルギーが伝わってくる演奏を聴きたいものです。

(つづく)



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